日常という非日常の中で日常というものを思う
最近、工場で働き始めて生活が一変した。
一応、寮という形で家があり自分の部屋をもっている。
家に帰ればキッチンがあるので料理もできシャワーも好きな時にゆっくり浴びれ寝袋ではなく布団で寝る。
部屋はエアコン付きでテレビまで置いてある。
一応は自分の部屋という空間を持っているということだ。
こういう生活は久しぶりで沖縄の家を引き払っていらい4、5年ぶりになる。
朝起きて朝飯を食べ仕事に行き昼間は弁当を食べ夕方には家に帰えって夕飯を食べる。
こういう生活からは、しばらく離れていたため何か新鮮だ!!
かといって、この生活は別に面白いものでもないし、落ち着くようなものでもない。
一度、別の生活をしてから、この暮らしに戻ると色々と見え方が違う。
人が生まれて学校行って卒業して就職して結婚するなりなんなりして、子供なんかできたりして「こういう生活をするのが世間一般の常識ですよ」みたいな変な壁みたいなものがあって、ルールに沿ってればまあ大半の人は、そこそこ満足したりできる。
そんな人生を送るには随分便利な世の中だ。
そうじゃない国もいっぱいあるけど発展している国なんてものは、大体そんなものだろう。
小さな時から刷り込みのように社会への適用の仕方を教しえられ学校という「社会の歯車製作所」で都合の良いルールや一般常識などの型にはめられ、製品化されて世間に出荷されていく。
そして人という生き物の社会をうまく回すために働いて、人によっては今していることがどういう事かもたいして、わからずに仕事をこなして、歯車化している場合もあったりする。
一時経てば子供ができて、社会が都合よく回り続けるように役目を引き継いでもらう。
それは、それで別に良いことだしバカにしているわけでは全くないし、今、書いたような人生おくってない人も沢山いる。
ただ俺は、そんな人間生活の螺旋から早めに抜け出せて良かった。
敷かれたレールが途中で壊れていて良かった。
元々、夢や野望は生きていく為には必要ない。
それがなくても生まれて食べて、食べるためにはお金が必要で、お金を得るために仕事をして子孫繁栄していれば人間が滅びることはない。
でもそれだけでは面白くないし空しいし俺である意味がない気がする。
だから、やりたい事が幾つもある。
でも俺も普通に学校行って就職していれば今みたいな暮らしをずっとしていたのかもしれないと恐ろしい。
そんなものは、安定ではないしね。
まあそんな生活の中でもやりたいことはいくらでも見出せるんだろうけどね。
今みたいな暮らしも悪くはないけどじきに退屈になるだろう。
その時までは、今の俺にとっての非日常生活を楽しむとしよう。